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果てしない夢を追いかけて…凱旋門賞、日本馬の挑戦の歴史とは?

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凱旋門賞が創設されたのは1920年。当時は競馬先進国のイギリスらに見向きもされなかったレースでしたが、賞金の増額、さらにフランス国内のスターホースたちの活躍から凱旋門賞が評価されていくようになり、戦後になると凱旋門賞は欧州の中でも競馬があまり発展していなかった国のレースにもかかわらず、欧州債候補のレースとして知られるようになりました。

イギリスの競馬を模範として生まれた日本の競馬界も当然ながら、興味を示さないわけがありません。凱旋門賞はもちろん、世界の格レースへの挑戦そして制覇は日本のホースマンたちの夢になりました。

しかし、戦後から60年代初頭の日本競馬で海外の大レースは憧れの一つであり、実際に自分たちが制するというイメージは持っていませんでした。仮に海外のレースに出走するとしても凱旋門賞ではなく、アメリカの国際レースであるワシントンDCインターナショナルが大半。58年には当時の日本の最強馬、ハクチカラが1年間の長きにわたりアメリカ遠征を敢行しています。

第二次世界大戦で日本がアメリカに敗れた影響があったのかも知れませんが、当時のホースマンは欧州への遠征よりもアメリカの大レース制覇に意欲を燃やしていました。

そんな日本のホースマンの目が凱旋門賞に向いたのは69年。スピードシンボリを所有するオーナー、和田共弘の発案からでした。「国際性の高い競馬をしたい」とかねてから訴えていた和田は所有馬の海外遠征にも積極的で、67年に天皇賞(春)を制したスピードシンボリをワシントンDCインターナショナルに出走させます。

このレースで日本馬最高の成績となる5着(9頭立て)という結果を残すと、2年後の69年には国内のレースには目を向けず、欧州の大レースに立て続けに挑みました。その中の一つとして、和田は凱旋門賞を選択。スピードシンボリの成績は11着以下の着外と惨敗を喫しましたが、日本競馬の文明開化ともいえる出来事でした。

スピードシンボリの凱旋門賞挑戦から3年後、当代きっての大馬主、北野豊吉が手塩にかけたメジロムサシが参戦。クラシックよりも天皇賞をモットーにしてきたメジロ軍団のエースは前年の71年に天皇賞(春)、宝塚記念を制しているように脂が乗り切った状態で遠征しましたが、結果は18着と大惨敗を喫します。道悪馬場が得意なステイヤーが敗れたことで日本のホースマンたちの間で「凱旋門賞は勝てないレース」という風潮が強まり、それ以降の遠征馬が途絶えてしまいました。

3頭目のチャレンジとなったのはシリウスシンボリ。スピードシンボリのオーナーである和田共弘が所有し、85年のダービーを制した実力馬ですが、主戦騎手の交代をめぐって和田と調教師の二本柳俊夫が対立。これが原因になったかは定かではありませんが、ダービー終了後に欧州へ長期遠征を敢行。凱旋門賞には翌86年に挑むことになりました。

しかし、シリウスシンボリにとって不運だったのがこの年の凱旋門賞の出走メンバーのレベルが高すぎたことでした。この年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスSを制したダンシングブレーヴを筆頭にフランスダービー馬のベーリング、英ダービーでダンシングブレーヴを破ったシャーラスタニ、さらにトリプティク、アカデナンゴ、ダララと世界角国のトップホースが軒を連ねるという状態。これではシリウスシンボリでも勝つのは難しく、ダンシングブレーヴがブッチギリの圧勝を見せる中で14着に大敗しました。

この年以降、日本馬の凱旋門賞挑戦はぱったりと途絶えます。というのも、81年に日本国内に海外馬の招待レースであるジャパンCが開催されることになり、海外の一流馬と日本で戦えるようになったことが大きいとされています。

そのジャパンCでも当時の日本馬は海外馬に太刀打ちできないことが多く、遠征してまで挑むなんてとんでもないという風潮に包まれていました。しかし、90年代に入ると次第にその空気が変わっていき、97年にはサクラローレルが凱旋門賞挑戦を目指して前哨戦のフォワ賞に出走しましたが、レース中の故障が原因で引退に追い込まれました。しかし、サクラローレルの不運の後も日本のホースマンの目は世界に向くようになり、凱旋門賞挑戦を決定的なものにしたのはエルコンドルパサーでした。

98年に2400mという距離を克服して、ジャパンCを制したエルコンドルパサー。この時の勝ちっぷりが優れていたことで渡邊隆オーナーは翌99年の凱旋門賞挑戦プランをぶち上げます。日本馬にとって、約13年ぶりの凱旋門賞挑戦となりました。

これまでの日本の遠征といえば、凱旋門賞1戦のみというのがセオリーみたいなところがありました。しかし、エルコンドルパサー陣営は欧州の馬場に慣れさせるために5月からフランス遠征を敢行。1年間にわたる壮大な長期遠征プランを持ち込みます。

過去に類を見ないエルコンドルパサーの挑戦はイスパーン賞2着、サンクルー大賞典1着、フォワ賞1着と結果を残し、本番の凱旋門賞を有力馬の一頭として迎えました。

これまでの凱旋門賞に挑戦した日本馬はおまけ扱いの人気薄でしたが、エルコンドルパサーは欧州の競馬ファンからも認められるほどの実力を兼ね備えていました。実際にレースに入ってからもエルコンドルパサーの走りは圧倒的で、直線半ばまで先頭に立つという見せ場たっぷりのレースを見せました。

最後の最後でエルコンドルパサーはモンジューに差されてしまいましたが、不良馬場を逃げて半馬身差の2着に入ったことは日本馬最高着順であるとともに欧州の競馬ファンからも「2頭のチャンピオンがいた」と絶賛されるもの。このレースを最後にエルコンドルパサーは現役を引退しますが、この年の年度代表馬に選出。日本で一度も走らずに年度代表馬になったのはこの馬が初めてのことでした。

このエルコンドルパサーの活躍は日本のホースマンたちに勇気を与え、20世紀には4回しかなかった遠征が2001年以降急増し、昨年までに延べ16頭が参戦。2010年代に入ると15年以外は毎年出走し、日本の競馬ファンにも認知されるようになりました。

出走頭数が増えたことで制覇のチャンスが増えているのは確かな凱旋門賞。日本のホースマンの悲願ともいえる凱旋門賞制覇まであと一歩のところにまで迫っているといえるでしょう。